~日本のミッドセンチュリーシーンを支えてきたデザイナー達~Vol.3 柳宗理

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“バタフライスツール” 
この有名なスツールをデザインした、柳 宗理 氏。
誰もが一度は耳にしたことがある名前ではないでしょうか。
海外でも実力を認められる、日本のミッドセンチュリーを牽引したデザイナーの一人です。
 
ある雑誌の一面で、ル・コルビュジェの協力者であったシャルロット・ペリアンと写っている写真があります。
地元の学生たちと、旅館らしい一室で、談笑している写真。
 
私たちは、写真の中で談笑する2人を見て、当時の彼らの考え方や人柄、どのような会話をしていたのか、お互いの関係性に興味を抱き、
柳工業デザイン研究会の藤田さんにお話を伺ってきました。
 
 
~日本のミッドセンチュリーシーンを支えてきたデザイナー達~

Vol.3 デザイナー 柳 宗理を読む。

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日本のミッドセンチュリーシーンを支えてきたデザイナー達vol.1

 

Vol.1 成形合板技術のパイオニア 天童木工

 

ミッドセンチュリー

時代で言うなら1940年代

それまで家具と言えば直線的なデザインが多かった中で成形合板の技術が取り入れられ、数多くの名作家具が世に出た時代です。

例えばイームズの代表作であるプライウッドチェア。

それまでの技術では強度的に弱かった3次元曲面の座面を持った椅子で戦時中に制作していた脚用の添え木、レッグスプリントの開発から生まれた20世紀の最高傑作とまで言われています。

そしてこのプライウッドチェアは背と座とが別々のパーツで出来ていましたが、これを一体化させる事に成功したのがアルネ・ヤコブセンのアントチェアです。

当時は新しい技術がもたらす自由に多くのデザイナーが取り組み、今も残るデザインを残しました。
 
その頃日本の家具はどうだったのでしょうか。

日本には世界に通用するデザインなんてないのではと思う人もいるでしょうけれど、そんなことはありません。
 
むしろこの時代に初めて世界に通用するデザインが生まれたのです。
 
終戦後、山形県の旧天童町に大工や建具の職人が集まり、天童木工家具建具工業組合が結成されました。

後の天童木工です。
 
最初は軍需品を作るために集められた組合でしたが、終戦後に手持ち材料を使って家具を作り始めたのだそうです。

住まいの中で必要なちゃぶ台などを百貨店に卸したのが ビジネスの始まりで、

日本で初めて成形合板の技術を取り入れたのがそこから2年後の1947年、ここから新しい天童木工の歴史が始まっていきました。

 

 

 

北欧やアメリカで確立されつつあった成形合板の技術がきっとこれから先の時代を作るだろうと見越して機械を導入したことから剣持勇や柳宗理などから今までに無かった家具の相談が舞い込んできたのです。

今ではパリのルーブル美術館やニューヨーク近代美術館(MoMA)のパーマネントコレクションに選ばれたバタフライスツールは天童木工を語る上でかかせないものとなりました。
 
 
今回天童木工の加藤さんにお話をうかがうことができました。
 
【今ではよく見られる企業とデザイナーのコラボレーションですが、天童木工はその先駆けの様に思います。どういった事がきっかけだったんでしょうか。】
 
「当時の日本では最新技術であった成形合板を使って家具を作りたいという相談をデザイナーさんからいただくことがほとんどだったようです。柳さんのバタフライスツールに関していえば、柳さんがスツールの模型を作って、こういう物を受けてくれるメーカーがいないので何とかならないかと国の産業の研究機関だった工芸指導所に持ち込んだところ、天童木工なら出来るかも知れないと紹介されたのが始まりなんです。

そして当時売れっ子建築家だった丹下健三さんが天童木工で内装に使うものや家具を作っていて、それに触発されて色々なデザイナーから依頼がくる様になったのです。」
 
【バタフライスツールが大切な位置づけをされてるのはどうしてでしょうか】
 
「こんなに複雑な曲げはやっぱり最初は出来なかったんですよ。でもどうやってそれを作っていくか開発していくことで、成形合板の技術も向上していきました。

これが内部のデザイナーだと出来なかったと思うんですよ。

現実的な制約を自分で出してしまうんです。これは出来ないから止めようっていうような。しかしこれが外部のデザイナーなら何とか作って欲しいという要望に応えようとする関係性があったから企業としても成長出来たんですね。それは塗装もそうですし、曲げから組立までも全ての工程においてデザイナーとのやりとりがあったので、工場としても成長出来た、そしてそれが世界に名前を知られるきっかけにもなった。初期の天童木工を語る上で欠かせない椅子なんです。」

 

※「3次元プレス成形」により、薄くても強度を保ちながら、無垢材では出せないフォルムを可能にする。

 

【今の時代新しい技術ですと3Dプリンターなんてものが出てきていますが、何か新しく取り入れたい素材や技術などありますか】
 
「会社としてはどこかに成形合板を使っていたいというのがありますが、60年代には発泡ウレタン成形の家具なども作りましたし、木にこだわり過ぎない方が良いのではないかと思う部分もありますね。個人としては色々な材料を試してみるのも良いと思います。ですが成形合板で熟練してきたからこそ、いきなり新しい物に手を出しにくいんですね。

今は間伐材や針葉樹を使った家具製作に取り組みを始めています」
 
【針葉樹というと脆くて家具には向かない素材ですよね】
 
「そうです。密度が少なく脆いのですが、圧密というんですが、材料を切り出した後に成形合板用にローラーで圧縮をして使っています。

角材を圧縮するには相当な力と熱が必要でして、そうすると変色してしまうので本来の色が保ちにくいという課題があります。

ですが薄くスライスしてローラーにかけると変色せず、本来の味を残す事ができます。これは成形合板をやってきた私たちだからこそ開発出来た技術なんです。

 

 

※スギなどの針葉樹に圧密加工をし、成形合板の素材に利用して完成した椅子。

 

それでも全て針葉樹では広葉樹と同じような強度が出るかというとそうではないので、様々な工夫をしています。

あくまで木工の枠の中で新しい課題に取り組みをしていますが、昔がそうであったように新しい技術を取り入れて課題に応えていくというのが私たち天童木工の本来のあり方とも思います」
 
【課題に応えていくというと、水之江忠臣さんの椅子の話は有名かなと思います。】
 
「有名というと、どのあたりのことでしょうか」
 
【100回は作り直したという話です】
 
「恐らくですが、もっと多いのではないかと思います。今も色々直していますから」
 

そう言って加藤さんは水之江ダイニングチェアを持ってきてくれました。

とてもシンプルで控えめな、でも力強い正直者のような印象の椅子。
 
次回はこの椅子についてもう少しお話を聞かせてもらおうと思います。

 

Vol.2 デザイナー 水之江 忠臣を読む。>>

 

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